西部謙司の著作から [ 日本代表 ]
昨年12月に出版された西部謙司の著作、アジアカップ&ユーロ2004超観戦記を読んだ。
その名の通り、アジアカップとユーロ2004について書かれている。
ユーロの方では、フランス代表の98年W杯優勝からユーロ2000優勝、
W杯2002の惨敗、そしてユーロ2004の準々決勝敗退に到る流れを追って
フランス代表がどう変わっていったのかを解説していたのが
とてもわかりやすくておもしろかった。
1試合1試合を切り取るだけでは大きさのわかりにくい問題も、
俯瞰して見れば全体に占める割合の大小が把握しやすい。
私はフランスが不振に陥った原因について、初めて得心が行った。
アジアカップについて書かれた章では、次の二つの点が印象に残った。
アジアカップに限らず、ジーコ就任当初から継続して練習を見てきた中で言えるのは、
”ジーコは結果しか示さない”ということ。
優勝してアジアの諸外国の記者の持った感想は、4年前のレバノン2000の時と同じ、
「日本はアジアレベルを超えている。まるでヨーロッパのチームのようだ」というものだったこと。
前者については、インタビューに答えて”(何も教えないと言われてますけど)そうでもないですよ”
といったコメントを残す選手もいたので、実際どうなのだろうと私は思っていたが、
それは”全く何も教えないわけではない”というぐらいの意味だったようだ。
例えば、守備の仕方。
「一人余れ」ジーコは、選手たちが守り方を理解するまでに
堅実で几帳面なジーコは、マークとカバーリングでゴール前でのリスクを避ける守り方を支持した。ところが、例によって彼が示すのは結果だけである。
中略
ゴール前で相手をフリーにしないために、どこまでマークし、どこで受け渡すのか、どこから守備を始めるのか。結果を出すためのディテールは、ほぼ選手へ丸投げ同然といっていい。
「残念ながら、1年10ヶ月かかってしまったのは事実だ」と述べ、
それについて西部は、
ジーコは監督就任のその日から、この程度のことはできると考えていた。「この結果を出せ」で十分だと思っていたのだ。これは完全に見込み違いだった。と述べている。
ジーコの監督経験のなさからくる見込み違いは、これ以外にも数々の言行不一致となって表れている。
この程度のことならできると思っていたのにできない。
だがどうすればいいのか、経験もメソッドもないジーコにはわからない。
ただ座して待つのみだ。
後者について。
西部が各国のジャーナリストと実際に話して、贈られたこの称賛の言葉を読んだ時、
私は軽いショックを受けた。
あの、レバノンで見せたスペクタクルなサッカーと今回が、結果的に同じ評価になるとは。
今回の評価はもちろんサッカーそのものの質に対してではなく、
日本代表の「成熟したメンタルと試合運びの巧さ」に対してである。
現在の日本代表が悲しいのは、ひたすら勝つだけのサッカーを志向していることだ。
理想を掲げていた指揮官も、残念なことにいつしか変節してしまった。
オリンピックの毎度の盛り上がりや、日韓W杯でのやや異常とも見える盛り上がりを見てわかる通り、
サッカーに限らず日本人は”代表”が好きだ。
おそらくその傾向は、Jリーグが何十年と続いてそれこそ日本中に根付いても、変わることがないと思う。
そして将来のプロサッカー選手、そして日本代表入りを目指すサッカー少年たちも
当然、日本代表のサッカーを注視する。
日本を象徴する、日本サッカーの最高峰であるべき日本代表の見せるサッカーが
勝つためだけのサッカーであり、
子供たちにあんなプレーをしたいと思わせるようなサッカーではないという現状。
日本代表の未来は。
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