リプレイ [ その他サッカー ]
フェネルバフチェ監督に就任したジーコについて、トルコからの現地報告。
まるで4年前の日本をリプレイしてるかのような。
あの時はジーコの監督としての手腕を疑問視しててすごく不安だったけど、今はもう対岸の火事
(この”対岸の火事”というフレーズ、各所で使われてるだろうな)。
笑える。そんな気楽さと、4年前と酷似していることとが相まって。
記事中では割合的にそんなに高くないことが”珍しい”と表現されているが、
それでも過半数を占めるジーコ就任に対するポジティブな声。
監督としての力量うんぬんではなく、選手としてのネームバリューで判断を下してしまうなんて、
ブランド志向、輸入品をありがたがる志向の強い日本の特徴かと思っていたけど、そうでもないらしい。
トルコは地理的、歴史的、そしてサッカーの実力的にも微妙な立場にいるから
ヨーロッパの一流国とは違うのかも知れないが。
ジーコはまたしても”攻撃サッカー”を掲げている。
それを実現するために自分は一体何をしたんだい。
そもそも日本代表では実現出来なかったでしょうが。
マスコミがジーコ就任の経緯や根拠に対して無批判で、
聞こえの良いフレーズを連呼して読者を煽るのも共通している。
ただ、日本の場合は実績という判断材料そのものがほとんどなかったのに比べて、
設定した目標に対してどんな内容や結果を残したかについて検証することは、
日本というサンプルがあるから可能なのにそれをやろうとしていない。
「FOTOMAC」紙のインタビューでジーコが答えた内容というのには目を疑う。
私が監督として成功しなかったという意見には同意できない。日本では成功したと思っている。日本のような国でサッカーをメジャーにさせた。アジアカップを手に入れた。W杯にも出場させたし、本大会でも悪いプレーをしたとは思っていない。W杯に出場させたのは小さな仕事なのか?攻撃サッカー、自由なサッカーを掲げておきながら、
結局は結果でしか自分の仕事を語れないことに、彼は矛盾を感じることはないのだろうか。
それにW杯本大会に際して設定したベスト4という目標はどこに行ってしまったのか。
そしてジーコの天然が炸裂しているのが、これだ。
望んでいるレベルへ到達するには、長い時間は必要ないと思っている。シーズンの半ばごろには選手がチームにフィットし、望んでいるサッカーができると考えている逆にフェネルバフチェのフロントがすごい。
よくこんなのんびり屋さんを就任させたものだ。
がんばってもっとネタを提供してね、ジーコさん。
祭りが終わって [ その他サッカー ]
東京サポにはおなじみ、MXTV三田涼子アナウンサーの日記から(6/28をクリック)。
もうパブリックビューイングや応援イベントの取材はお腹いっぱいです。だって、勝っても負けてもどんな試合内容でもさして重要ではなく、ただ青いシャツを着て集まって歌ったり踊ったりしたいだけの人が多すぎる。これも4年前は面白い社会現象だと思いましたが、正直言って食傷気味ですお祭りを煽って盛り上げることがマスコミ自身にもスポンサーにとっても有益になるわけだから
本来アナウンサーという立場に限らず、マスコミ側に立つ人にとっては
”ただ青いシャツを着て集まって歌ったり踊ったりしたいだけの人”の存在は
人の形をした成果であるわけだ。
従って上記のような発言をすることは、たとえ小さな地方TV局のアナウンサーであっても相当珍しいと言えるだろう。
マスコミが必然的に抱えるいち側面を自ら否定しているとも言える。
マスコミの人間として、不特定多数の人が見るネット上にそのような心情を吐露するにあたっては、
それなりの心的障壁を感じ、それを乗り越えるには勇気が必要だっただろう。
それだけ憤懣やる方ない思いを抱えているということか。
そんな三田アナの発言を何故取り上げたかと言うと、私自身4年前に全く同じ気分を味わったために、
三田アナの気持ちがよくわかるからだ。
W杯日韓2002では、私は3試合をスタジアムで観戦し(日本戦は残念ながらチケットが入手出来なかったが)、
それ以外にも調布や横浜や埼玉のパブリックビューイングに行ったり、新宿や六本木のパブで観たり
サウジアラビア代表の練習を味スタに見に行ったり、
出来る限り自国開催のW杯を体感しようと外へ出かけて行った。
そしてW杯が終わった時、第1の感想が「楽しかった」。
第2の感想というのが「観客の成熟度において、日本がW杯を開催するには早過ぎた」
(当時はまだブログを開設していなかったが、開設していたら間違いなく掲載していた)。
理由は三田アナと全く同じ。
行く先々で単に騒ぐだけのアホな奴らに大量に出くわし、嫌気がさしたからである。
何故にサッカーを語れないのに、サッカーの祭典で熱狂出来るのか、私には理解不能だった。
六本木の路上を埋め尽くした奴らが、日本の勝利を喜び合ってハイタッチを繰り返す様が気持ち悪かった。
私は実際に足を運んで体験している。
六本木に来ていたのはそのほとんどがお祭り気分を味わいたいだけの人だった。
もちろん、W杯開催によってスジタアム建設やその周辺アクセスが改善されるなどインフラ整備が進み、
サッカーに対する認知度が上がり、代表への注目度の上昇に伴ってJリーグへの注目も高まり、
Jリーグ開幕以降、10年を経た日本のサッカー界のみならず
その環境までも含めた日本社会にW杯開催が与えた影響は計り知れない。
だが、いちサッカーファンとしては、次にいつ開催出来るかわからない、
開催出来るとしても私が生きている保証はないW杯の自国開催の時期には早過ぎた、そう思うのである。
10年20年後ろにずれても、お祭り好きな国民性が変わることはないだろう。
しかし改善は見込める。
それだけ日本人の中でサッカーに対する理解が深まり、反比例してサッカーに対して理解の浅い人の数は減少する。
つまり行く先々で三田アナや私が不愉快な思いをする確率は減少するわけだ。
W杯という大会にとっても、サッカーの祭典にふさわしい、より真に近い熱狂が生まれるだろう。
ただし、当然ながらこの見込みはサッカーに対する理解度の増進を前提としている。
10年20年経っても、結果的に理解度に向上が見られなければ全く意味はない。
さすがに1次関数的な単純増加ではないかも知れないとは思っていたが、
それにしても、わずか4年後に日本代表の停滞期突入、
日本サッカー界冬の時代再到来が危惧される状況に陥るとは、私も予想していなかった。
私に出来ることと言えば、スタジアムに足を運ぶこと、
そして少しでもブログで意見を発すること、これぐらいだ。
だから超零細ブログだけどがんばります、これからも。
多士彩祭 [ その他サッカー ]
今大会のイングランドはおもしろい。
攻撃が実に多彩だ。
クラウチの頭にも足下にも入れられるポストプレー、オーウェンの裏への抜け出し、
ジョー・コールのドリブル突破とラストパス、ベッカムのロングパスとフリーキック、
ジェラードとランパードのミドルシュート、アシュリー・コールとガリー・ネビルのオーバーラップ。
ホントによくこれだけ揃ったものだ。
これに加えて、スピードとパワーを兼ね備え、テクニックがあり
どこからでもゴールを陥れるストライカーとしての天賦の才を持ちながら味方へのアシストも出せる、
最近では精神面でも落着きが出て来てハイボールの競り合い以外はほぼ万能のルーニーがいる。
パラグアイ戦では後半やや失速したが、第3者が見て楽しいサッカーを披露してくれる可能性は高い。
対戦相手がどこだろうと、全試合チェックする価値があるだろう。
余談
イングランド対パラグアイ戦後半23分から出場したパラグアイのクエバス。
2002年では途中出場してムチャクチャキレのあるドリブルからの2得点で鮮烈な印象を残した22才も、
今大会では26才にしてFW最年長。
W杯における活躍以降もなぜか欧州とは縁がなく、現在はメキシコのパチューカに所属、
福田と一緒にプレーしていた時期もあったようだ。
今もキレのあるドリブルは失われていなかった。
メキシコあたりにいるなら、Jリーグに来て欲しいなぁ。
ライカールト [ その他サッカー ]
0506シーズンにおける、リ−ガエスパニョーラ優勝とUEFAチャンピオンズリーグ優勝の2冠を成し遂げたバルセロナ。
得られた結果もさることながら、その内容でも
クライフ監督時代のドリームチームと比肩されるほどの魅力を持ったスーパーチームである。
そのスーパーチームにあって、ロナウジーニョを讃える言説は数多あれど、
監督であるライカールトの功績を讃える言説を目にすることはない。
一体監督ライカールトは、今のドリームバルセロナを作り上げるまでに
具体的にどんな役割を担い、どんな指導をしたのだろうか。
バルセロナを見ると、個々の選手が自分の持ち味を生かし、自由にプレーしているように見える。
だが、パスワークの土台となるコンビネーション、頻繁なポジションチェンジを補うカバーリング意識の高さ、
前線からのプレッシング、攻守切り替えの速さなど、組織としての完成度も非常に高い。
ロナウジーニョのみならず他の選手も、個人が互いの密な関係の中で輝いている。
そんな個人としても組織としてもハイレベルな集団を作るのに、監督が関わっていないわけがない。
だがどんな関わり方をしているのかは、外からはなかなかわからない。
2002年以降の日本代表を語る時、現監督であるジーコと前任者であるトルシエを比較して、
ジーコは選手に自由を与えたが、トルシエはフラットなDFラインの3−5−2というシステムに選手を当てはめた
という言い方をよくされる。
だがライカールトも、中盤が逆三角形の4−3−3システムを変えることは滅多にない。
その意味では、選手ありきではなく、まずシステムありきと言える。
それでも選手たちピッチ上で自由を謳歌し、最も美しいとまで評されるサッカーを表現している。
過程はわからない。
しかしライカールトは組織の上に自由を花開かせる方法を知っている
(ここが自由を標榜するだけで無策なド素人監督ジーコと大きく違う点だ)。
もちろん選手に恵まれたのは間違いない。
個人技に優れ、戦術理解力が高く、高性能のフィジカルを持ち、
モチベーションを保ち、逆境を跳ね返すメンタルを有する選手たち。
とは言え、どれだけ優れた選手であろうと、それ自体はチームにおいてパーツに過ぎない。
パーツを組み上げてバルセロナという1つの芸術品に仕上げるためにライカールトがした仕事とは。
その深遠な秘密に触れることは、おそらく一生ないのだろう。
審判のアホ [ その他サッカー ]
つい先日の記事で審判へのブーイングは好きじゃないと書いておいてその舌の根も乾かぬうちになんだが、
CL決勝の後半18分、レーマンのファウルを流さずに退場とした判定にはブーイングである。
アンリはこう言ってるけど。
振り返ってみよう。
主審が下した判定はこうだ。
エトーに対する得点機会阻止でレーマン一発退場。
バルセロナにはFKを与える。
以降70分あまりを11対10の戦いに。
レーマンのファウルを流した場合、
ジュリがこぼれ球を押し込んでバルセロナ先制。
レーマンにはラフプレイとしてイエローカード。
バルセロナ10リード、11対11で残りを戦う。
絶対流した方が試合としておもしろい。
アーセナルのチームとしてのレベルが高かったために1人少ないことを感じさせず
さほど試合のレベルは落ちなかったが、
退場がなければもっとおもしろくなったのではないかと思うと残念だ。
でもベンゲルもレーマン退場の判断は間違ってなかったと言っているのね。
ありゃ。私だけか。
5/19追記
当の主審が判断ミス認める。
引越し [ その他サッカー ]
サイトの引越しではなく、現実の引越し。
週末に狛江市から三鷹市に引っ越すので、更新が出来なくなる。
もちろん名古屋戦は観に行くけど、いつなるかわからん状態。
木村がコラムを書くとマウスの動きが変わる [ その他サッカー ]
スポナビで連載中の木村浩嗣の「誘惑と憂鬱のスペインサッカー」。
今私が一番好きなコラムである。
毎回楽しく読ませてもらっているが、この人のコラムのポイントは”詳細”、”具体的”。
詳細と言っても試合経過を詳細に追うのではない。
例えば、その試合が何故そのような試合展開になったのか?
勝敗の分かれ目はどの辺にあったのか?
活躍した選手の凄いところはどんなところか?
を、詳細にかつ具体的に分析するのである。
少し前になるが、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦第1戦チェルシー対バルセロナの
モリーニョとライカールトの試合中の采配についての分析は本当に面白い。
木村氏は、カテゴリーはトップチームではないが本職は監督である。
文筆家としてはプロではない(対価はもらっているだろうが、それで飯を食ってはいない)。
だが彼のコラムを読む度に、文筆家として最も大事なものは、
伝えたいという衝動なのである、と実感させられる。
衝動は怒りによって喚起させられたものであってもいいが、
読む側としてはやはり、感動、畏敬、賞賛、などによって喚起させられたものならばなお良い。
その文章によって読み手は書き手の感情を分け合う。
分け合う感情は怒りよりも感動の方がそりゃ良いに決まってる。
そこで今回のコラムアーセナル対ビジャレアルの7つのポイントだが、
まず「1:アーセナルの全員攻撃、全員守備の驚異」がおもしろい。
アーセナルも凄いが、日本のサッカーファンなら思い出すのがジェフ千葉だろう。
オシムは走ることは戦術(木村の言葉で言えば戦略)以前である(もちろん個人技でもない)と言うが
目指すところは同じなのではないだろうか。
「5:セスクがボールを持つと周りの動きが変わる」もいい。
”セスクがボールを持った時”の一瞬における、詳細かつ具体的な分析。
素晴らしい選手セスクに対する賞賛は読んでいて気持ちがいい。
スペインで監督業をしている木村氏が、セスクの順調な成長を願って、
帰って来て欲しくないと述べるくだりでは笑ってしまった。
スペインに対する厳しい言葉は、愛情の裏返しだ。
日本にはそれで飯を食っているくせに、毒にも薬にもならないコラムを書く人間が多過ぎる。
サッカー中継における解説も同様だ。
全員が木村レベルとは行かないまでも、文筆家として批評家として向上していって欲しいものだ。
もちろん我々読み手も、批評家を批評し、安穏としてはいられない雰囲気を作る必要がある。
供給過多 [ その他サッカー ]
FIFAが主催する世界選手権の名称をワールドカップに統一するというニュースがあった。
変更されない大会も含めてずらりと並べると以下のようになる。
FIFAワールドカップ
FIFAU20ワールドカップ
FIFAU17ワールドカップ
FIFA女子ワールドカップ
FIFAU20女子ワールドカップ
FIFAコンフェデレーションズカップ
FIFAクラブワールドカップ
FIFAフットサルワールドカップ
FIFAビーチサッカーワールドカップ
名称変更自体は些細なことだと思うが、私自身は変更には賛成ではない。
サッカーのワールドカップの成功にあやかろうと
他の競技でも盛んにワールドカップの名称が使用され始めたが、それと同レベルだからである。
サッカー界の頂点を決める大会、ワールドカップという地位を保ちたいなら乱用は避けるべきだ。
安売りしたらしたなりの商品価値になるのだから。
クラブワールドカップには利権に絡んだ噂もまことしやかに流れているのもきな臭い。
ちなみに、FIFAワールドカップの後によく付いているTMの表記だが、
”商標登録”を表す(R)と異なり、法律上何ら拘束力のない表記だということは
意外に知られていない。
だから「FIFAワールドカップ」という名称を誰かが商標登録しようと思えば
今からでも手続き上は可能である。
ただ、これだけ人口、人目、人耳に膾炙しているので事実上は無理だろうけど。