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外 [ 日本代表 ]

日本代表がW杯ドイツ2006の出場権を獲得。
まずは一安心。

今回はアジアカップの時のような自作自演的感動はなかった。
が、スタジアムの外から声援を送り続けたサポーターに私は感動した。
試合中から、彼らは映像を観られているのだろうかと気になっていたが、
やっぱり観られていなくて、携帯で連絡を取り合って状況を把握していたのだ。

いやぁ、すごい。
彼らが得られる個人的な利益などは一切ない。
ただ、自分たちはあの無観客の北朝鮮戦でも声援を送り続けたという自負だけだ。

私は東京に対して、あそこまで自己犠牲的になれるだろうか。
あの状況で、ホテル内TV観戦ではなく、スタジアム外応援を選べるだろうか。
ちょっと自信がない。

ニュースで見るとウルトラスの横断幕にウルトラスのTシャツ。
そして12番ゲート。
もちろんウルトラスのメンバー以外のサポーターもいただろうが、
ウルトラスが中心的役割を果たしていただろうと推察される。
最近は批判の声もあったウルトラスであるが、ここへ来て面目躍如といったところだ。

いずれにせよ、あそこまで無私、無我で応援するサポーターの姿を見せられるとは。
私には代表の戦いぶりよりもよっぽど清新に映った。
代表選手たちはこんな素晴らしいサポーターがいてくれることを
いつでも心に留めて戦って欲しいものだ。

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空白の代表 [ 日本代表 ]

北朝鮮戦出場停止の左サイド三都主の穴は誰が埋めるのか。
ジーコの選択は、中田浩。
ありゃ、三浦淳は?

北朝鮮戦メンバーが鹿島ばっかじゃん、という突っ込みは横へ置いておいて、私は何故に中田浩なのかが疑問だ。
同じ鹿島でも、守備に難ありのドリブラーという意味では、本山の方がタイプ的に三都主と似通っているからだ。
三浦淳というバックアッパーがいるのを差し置いて、本山というのならまだわかるが
どうしてサイドの選手でもなんでもない中田浩なのか。
私の知っている限りにおいては、352のサイドをやったのはマルセイユでの数試合だけだ。

三浦淳、本山、中田浩と並べてみて、中田浩を選ぶ理由を推測せよという問題を出題されたなら、
私は攻撃よりも守備力を重視したから、という回答しか見つけられない。

何と言うか、リアリズムに挫かれた理想を目の当たりにさせられて、少し哀しい。
かつては4バックのサイドに三都主を起用していたあのジーコが、
今や352のサイドに中田浩である。
だが、ジーコ個人の変節だけなら、こんなことは笑えば済む話だ。

ここ10数年の日本サッカーが急速に発展した最大の根本的要因は、
アジアを勝ち抜き、世界に伍していくために必要なものを現状から分析し、
中長期的な計画を立て、それに基づいて育成・強化を行ってきたからだろう。

こう書くと当たり前で簡単なようだが、的確な分析力、企画力、資金、遂行能力と
どれか一つでも欠けていたら、ここまで長足の進歩はなかったろう。
そして現日本代表監督ジーコには、全くそれらの能力が備わっていない。
今まで散々書いて来た通りだ。

理想の追求に必要な能力を何一つ持たないくせに、おいしい事ばかり並べ立ててきて
W杯予選の最後にたどり着いたのが、352のサイドにボランチ起用という消極的な選手起用と
”ボールの後ろに8人残す”という守備的戦術だったとは、笑うに笑えない。

日本代表という日本サッカーの頂点が
ジーコという素人監督に振り回されてきた(?何もやってこなかった?)この3年もしくは4年間は、
空白の3(4)年間として日本サッカー史に刻まれるだろう。

歳月と伝統 [ 日本代表 ]

サッカーの試合3日前にやり投げって(笑

それはさて置き。
バーレーンの疲労の遠因が、アジアカップにあったとはちょっと皮肉だ。
しかし、こうした事につまずいて挫折しながらも
少しずつ歩んでいくことが、”伝統”というあやふやなものを形作るんだろうと思う。

今のバーレーンは10数年前の日本の状況に重なる。
人口に大きな隔たりがあるので、現在の日本クラスの選手層を築くにはもっと時間がかかるかも知れないが
少し前まで日本ってあんな感じだったんだろうなと思うと
10数年という歳月を実体を伴って見せられているような、そんな気がする。

そして実に感慨深い。
ここまで来たんだなぁと。
またさらに10年後、日本はどんなポジションにいるのだろうか。

兵どもが夢の跡 [ 日本代表 ]

キリンカップ第2戦UAE戦は01の敗戦。

この試合は情報をシャットアウトしておいて帰宅後、夜10時半頃からビデオで観始めた。
少し前までは親善試合でも何でも、内容が期待薄であろうと何だろうと
出来る限りスタジアムへ足を運んでいたが、最近ではそんな気もなくなってしまった。

観終わった後、こんな試合になることがわかっていながら
わざわざ時間作って金を出して、俺もアホの一人だよ、と自嘲の念に駆られる。
なんてことを繰り返してきたが、アホの私でも、さすがに学習してしまった。
だから対戦相手的に観るべきもののない今回のキリンカップは、
最初からチケットを取る気にすらならなかった。

果たしてその結果は、連敗となる01の敗戦によって、タイトル獲得どころか日本は最下位。
ペルーとUAEの両国優勝となった。

これは私の勝手な想像だが、キリンにしてみれば、欧州や南米の列強相手ならともかく
何故南米予選で10ヶ国中9位に沈む南米の二流国ペルーや、
1次でアジア予選から姿を消したアジアの二流国UAEに
強化資金をプレゼントしなければならないのかと今頃思っているのではないだろうか。

元々内容に非常に乏しかったジーコジャパン。
美辞麗句を並べ立てていたジーコも実質的な結果至上主義から
今回、初めて明確に攻撃的、自由といった看板を下ろす姿勢を打ち出したUAE戦だった。

しかしこの結果。
結果は出ているという一点のみによって批判を逃れてきたジーコジャパンから結果を取ったら、
一体何が、何が残るというのだろうか。

このまま行ってしまうなら、夢の残骸だけってことに。
ああ想像したくない。
それだけはせめて避けたい。

リスクを避けた志の低いサッカーが招く未来 [ 日本代表 ]

本日4月2日の朝日新聞の朝刊13面に掲載の「私の視点」に、杉山茂樹が日本代表評を寄稿している。
杉山茂樹のシステム至上とする評価基準にはこれっぽっちも賛同することは出来ないが、
アウトプットとしての日本代表に対する評価それ自体については、私は全く同感である。
以下に骨子を引用する。

予選は内容ではなく結果だ。ロスタイムのゴールでもオウンゴールでも勝ちは勝ちという意見を否定するつもりはない。しかしその「現実的」視点は、長い目で見ると自らの首を絞める結果につながりはしないだろうか。
勝てば官軍という結果至上主義と、スポーツ(サッカー)の持つ本来の魅力との均衡が大きく崩れてしまっているのが、日本代表の現状だ。
冷静に見て、サッカーそのものが恐ろしくつまらない。ジーコ監督と選手が、サッカーの魅力を伝える伝道師役を果たしているようにはとても思えない。
今の代表の
リスクを避けた志の低いサッカー
で、
たまたま試合を見た人でサッカーって面白いなと感激した人はどれほどいるだろうか。
思うに、杉山と私が代表に求めているものは同じなのだ。
日本サッカーの象徴であり、これからの日本サッカーをリードして
進むべき方向を指し示すような牽引車としての日本代表。

日本サッカーの発展には、国内のあらゆるチームの中で、
最大の注目を集める代表の魅力あるサッカーが不可欠だ。
今の「リスクを避けた志の低いサッカー」で、サッカーの魅力に気付いてあらたなサッカーファンになる人、
あるいは、サッカーやってみようかなと思う子供、未来の代表候補がいるだろうか。

私は、ジーコが監督のうちにではなく、その後の世代になってから
ツケが回って来るのではないかという危惧を常々持っている。
ジーコが去った後にやって来る冬の時代。
その到来を想像して、私は暗澹たる気持ちになる。

問題点は明らかだ。
それは勝っているから、前回の最終予選の方がもっと危なかったからと言って
根本の問題を見ないでいるうちに、より対処の困難な大きな問題となって我々の前に立ち塞がるだろう。
その時に後悔してももう遅い。
逆に今なら、今のうちなら一点を改善すれば解決することができる。

なぜそれをやらないのか。
壮大な夢を掲げる日本協会が、
サッカーそのもので夢を与えることの出来ないジーコをどうして容認するのか、
私には理解できない。

熱狂と落胆と [ 日本代表 ]

W杯アジア地区最終予選第3戦対バーレーンは1−0の辛勝。

ジーコ監督就任以降、代表に対して冷めた視線を投げかけていた私も、
さすがに試合開始前後は燃えた
(それよりもっと前、香取慎吾がTVの収録のためにスタンドの近くまで来た時に、
ゴール裏の住人が殺到したのにはかなり萎えたが)。
でも最終的には今回の日本代表の戦いぶりも、私の見る眼を変えさせてはくれなかった。

イヤな目のやまかんさんは次のように書いている。

それ(グランドデザインを描かないやり方)が日本代表の根源的な部分、戦術やら采配やらといった鎧を剥ぎ取った本質的な部分を鍛えてくれたのだとしたら、ジーコに感謝しなきゃならんかな。
小細工を駆使して勝利する日本代表ではなく、もっともっと人間臭いところで相手を凌駕する日本代表が観たいっていう欲望は、確かにあったわけだし。
ジーコは天然タイプの天才であると考えている私には、
彼があるメソッドにのっとってやっていないことは既に既定の事実である。
だからたとえ”本質的な部分”が鍛えられたのだとしても、
それが後代に受け継がれないであろうという意味において、やっぱりジーコのことは評価できない。

あんまり批判ばっかり書くのは、セルジオ越後みたいで嫌なんだけどな。

逃げ口上 [ 日本代表 ]

3バックに戻すジーコ。
中田ヒデを復帰させるために”戦略的に”アウェイのイラン戦を捨てたとする宇都宮の推測は虚しく外れた。
宇都宮としては、私が書いているように単にジーコが天然だと断定しては
ライターとしての本文が果たせないとの思いもあってのことだろう、と勝手に考えているが。

それにしてもこのジーコの言い訳は、イラン戦の自分の選択が場当たり的なものだった
と認めているようなものなのだが、本人は気付いていないんだろうな。

「システムで勝てるなら監督など必要ない。今度は田中が出られる。彼がいればイラン戦も3バックで戦っていた」
サカつく風に考えてみよう。
あなたはシステムを352に固定してチームを作ってきた。
おかげでレギュラーの352システム理解度はAになり、アジアカップ優勝というタイトルも取れた。

対して442のシステム理解度はBだ。
元々能力の高い選手たちだし、ちょこちょこ試合中に試したりもしたからだ。
Aまでは至らないが、そこそこの理解度を保っている。

W杯アジア予選第2戦という大事な試合を控え、3バックの一角の田中という選手が出場停止になった。
ここであなたは一つの選択を迫られる。
352、442ともに理解度Bのサブメンバーを起用するか、
それとも全員が理解度Bの442にシステム変更をするか。

これはつまり、次の2つの比較ということになる。
1)はシステムは352のままで、田中の代わりにサブメンバーを入れた場合。
2)はシステムを442にした場合。
さて、あなたならどっちを選ぶ?

 1) AAAAAAAAAAB
 2) BBBBBBBBBBB

一目瞭然であろう。
「田中が出られなかったから442にした」と言うジーコは、一見システムに捉われずに
選手個々を尊重しているような印象を受けるが、その実、
一人の選手の離脱のためにシステム変更を行い、
それによって他の10人の選手に犠牲を強いているのである。

ただ、犠牲を強いているように見えるのはジーコが上記のような言い訳をしたからであって、
実際にはジーコはそんなことをやってはいない。
単に何も考えていないだけである。
勝てば官軍であったが、敗戦によって442にした何らかの理由を
述べなければならない状況に陥ったがために口にした逃げ口上だ。

選手たちはこんな監督をどう思っているのか、本音を聞いてみたいものだ。

4バックか [ 日本代表 ]

明日に迫ったW杯アジア地区最終予選イラン戦。

報道されている通り、4バックで行くようだ。
私の352でトップ下中村という予想は外れた。

どうもこれまでのジーコの行動からすると、442へのシステム変更は
イランの3トップに対処するためというよりは、単に中田と中村を併用したいがため、
と私などの目には映ってしまう。
もちろん3トップ対策もあるんだろうが、それは2番目以降の理由であると。

それに3トップ対策としての回答が4バックならば、
何故もっと早い時期からの段階的な移行を行わなかったのか、という大きな疑問が残る。
なにせ昨年4月の東欧遠征以降は、21戦中19試合で3バックを採用してきたのだ。
最終予選最大の敵であるイランとの試合にぶっつけでやるのは場当たり的過ぎる。
まぁいかにもジーコらしいと言えばそうだが。

ジーコは「最終的には監督の私が責任を取る。すべての叱咤は私が受ける」と断言したそうだが、
これも私の目には、自信ではなくリスクの高さ、不安の裏返しに見える。
守備陣が抱える不安も1日2日で解消できるようなものではないだろう。
3バックの安定化だって1年10ヶ月かかっているのだ。
どだい無理というものである。

ただでさえ不安要素の多いアウェイのイラン戦で、内なる不安も抱える日本代表。
さて、どうなることやら。



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